2020年6月30日火曜日

だるしゃな時間 その3

2020/6/26


こんばんは。今日も気楽に聞いてくださいね。先週の録音を文字に起こして、くっだらないことを脈絡なく話してんな~と反省をしてます。もう少し順を追って話して行くようにしたいのですが、もうしばらくはとりとめのない事柄をしゃべっていきたいので、お付き合いをお願いいいたします。


先週は、4~5千年前、始めのころのヨガは瞑想することでしたよ、というお話しを致しました。今日は哲学について、、私たちは「ヨガ哲学」と言ってますが、インド哲学、ヒンドゥー哲学などを考えたときに、いったんヨガとは切り離して考えておいたほうが判りやすいかなっと考えてます。
哲学とは「私はなんですか」「自分とは何者ですか」「何のために生きているんですか」ということを考える学問だということはお話し致しました。


原始の頃の瞑想にそのような哲学的な要素があったのか、そもそも今私たちが行っている瞑想と同じなのかも私たちの想像の外のことですが、妄想も含めて色々な想像をするに、宇宙人と交信していたとか、そもそもが地球外生物で「お願い早く迎えに来て!」ってお願いしていたとか。物証がないので本当はどうなのかは判りませんけれどね。







(物証があって判っている)哲学的な要素はBC1500年ごろに北欧系の遊牧民のアーリア人がインドに入って来たんですね。アーリア人は白人で青い目の民族でした。侵略されたというよりは「どうぞ、どうぞ」ダチョウ倶楽部的な感じ、気が付いたら居たとか、インダス文明は衰退していたので抵抗する力が無かったのかは定かではありませんが、とにかく侵入してきて居座ったんですね。アーリア人が持ち込んだバラモン教の経典が皆さんも知っているヴェーダと言われるものですが、リグ・ヴェーダの成立がBC1200~1000年と言われていますから侵入と共に持ち込まれたものでは無く、インドの地で出来上がった物であることがわかります。
そもそもヴェーダは聖仙(リシ)が深い瞑想によって得られた天啓(シュルティ)を集めたものです。これは私の個人的な想像ですが、アーリア人にはもともと瞑想する文化は無かったのだと思います。侵入したインドの地で先住民が行っていた瞑想というテクニックを自分たちも真似して行い、深い瞑想の中で、自分たちの宗教観に重ねられて得られた言葉(天啓)を集めてヴェーダが出来たんじゃないのかな?と考えてみたりしています。


天啓ですから、脈絡のない言葉の並びであったり、意味が理解できない音の羅列であったりしたものが多く最初はヴェーダ語と言われて後のサンスクリット語に発展をしていく言葉となります。

リグ・ヴェーダは全部で10章あります。最初に2章から7章までが成立して、後に1章と8章が付け加えられ、最後に9、10章がくっついたものです。シュルティですから何言ってるかよくわかんない意味わかんない膨大な数の詩みたいな短いセンテンス、言葉を、すべて口伝で伝えてきたわけですが、それを伝えていかなければならない人たちや家系が存在しました。音そのものに意味と力があると考え、発音や発声、音階を性格に伝えていくために、あるいは言葉を読み解いていくうちに、リグヴェーダ以外のヴェーダやヴェーダンタ、ウパニシャットが成立していきます。哲学として考えると、このヴェーダの中に哲学の芽吹きや言葉などはありましたが、私たちが考える哲学が発生するのはウパニシャットが出てきてからです。この時代にヨガはまだ係ってきていません。そしておそらくは哲学というより宗教として考えたほうがわかりやすい時代だと思いますが、このヴェーダをもとにバラモン教が発展していきます。バラモン教は寺院のような建物はなく、祭事や儀式を行う都度、祭壇を作りました。その祭壇に火を焚いて捧げ物を捧げてお祈りをする形式の宗教です。その祭壇の作り方、捧げものの準備、祭事の手順、唱えるマントラ等も厳しく決められていました。それは時代と共に複雑な様式となって祭司たちの特権階級へと発展していきます。日本でも成田山新勝寺とかは護摩焚きをしていますが、イメージとしてはそんな感じです。


その後、土着の宗教とバラモン教は混ざりあっていきます。同じころに、と言っても100年以上の時間差はありますがヨガも仏教も生まれてきます。

この哲学の興りがインドの様々な文化を大きく変え発展をしていきます。哲学の興りと共にヨガが発展したわけですから、当然、哲学からヨガが生まれ、ヨガの中には哲学があるので、現代社会においてもヨガをする私たちは、哲学を学び、ヨガには哲学があるし、ヨガとは哲学そのものですし、切り離せないものなのです。


先週の最後に、サーンキャ哲学はめんどくさいしそこから始めると大変、、と言っておきながら、サーンキャ哲学の話しをします。


ウパニシャッドの中で「私は大いなるものと同じだ」という答えを見つけます。その答えを証明していくためにインドの哲学は発展しましたね。ウパニシャッドや哲学にはブラフマンとかアートマン、プルシャやプラクリティというワードが出てきますが、これらは改めて作り出した造語ではありません。すでにヴェーダの中で出てきます。ウパニシャッドの哲人たちの多くがそのワードの意味を後付けで考えていきました。その中の一人、カピラ仙が提唱したのがサーンキャです。

サーンキャとは「数論」と訳されていますが、数字を数えるように論理的に解釈する、あるいはラベリングするという意味があります。サーンキャの中で「私と私以外のものは別のものである」つまり私(プルシャ)と私以外(プラクリティ)と2つに分けて考えた、これが二元論(ドヴァイタ:Dvaita)です。西洋哲学で二元論というと精神性と物質に分けますが、サーンキャにおいてもプルシャは精神原理でプラクリィは物質原理として扱ってはいますが、その変幻があまりに摩訶不思議なので割愛します。

インド哲学の興りにおいての考え方は一元論ですが、まだ形而上学としての哲学ではありませんでした。なので言葉として形而上学的な哲学として最初に成立したのはドヴァイタです。やがて500年ごろにヴェーダンタ学派の哲人シャンカラが不二一元論(アドヴァイタ:Advaita)を提唱して、一元論という考え方を示します。つまりドヴァイタではない、ア・ドヴァイタだよ~ってのです。これはプルシャとプラクリティの二つがあるんじゃなくて、あるのはプルシャだけ。プラクリティってのは幻なのだ。てな感じで、ヴェーダンタ学派が推していた梵我一如の一元論を継承して、サーンキャの難攻不落な論理をバッサリぶった切って、長く続いたこの論争に一旦終止符を打ったんですね。


このあたりは学派と時代によって言っていることが違うし、同じ事柄なのに違う言い方をする、言葉がいっぱい出てくるし混乱しやすいところなので、一度整理しておくと良いですよ。


今日のお話しは、インド哲学の興りはヴェーダで芽生え、ウパニシャッドで成長、完成して、哲学を研究する学派(六派哲学)の一学派から二元論が生まれ、その後一元論になって今に至る、という流れをお話ししました。


難しかったですか?インドの哲学を俯瞰して説明しているので、細かいことのお話しが足らなかったりしてますが、大まかに全体像を見ていきたいと思ってます。


今日の20分もあっという間に終わりました。来月からは木曜日の同じ時間にお引越しして、相変わらずうだうだとおしゃべりを続けていきたいと思いますので、お時間あったら聞きに来てくださいね。ありがとうございました。



2020年6月23日火曜日

だるしゃな時間 その2

2020/6/19

こんばんは。今日は時間通りの始まりとなりましたね、よろしくお願いします。

今の私たちがヨガとして行っているものは、体を使ってアーサナ(ポーズ)をとるのがメインの「ハタヨガ」が主流だと思いますが、ヨガの長い歴史の中で見ると、とても新しい、まだまだ歴史の浅いものです。ヨガが成立した4~5千年前のヨガは「座って瞑想する」ことがメインなのでポーズをとるはありませんでした。5千年前のこと、とても想像がつきませんが電気はもちろんインターネットやテレビラジオ、何にもない時代ですよね。太陽のある日中は明るいですが、夜は真っ暗で灯りは月や星の明かりだけ、自然現象の中で瞑想を行う私たちの祖先は様々なものに気づき、発見をしてその中から哲学の芽というものが生まれてきたわけです。

ヨガ哲学はヨガよりちょっと後に成立しています。ちょっとと言っても千年単位ですけどね。いきなり哲学が生まれたわけではないです。当時、瞑想というスタイルのヨガは何らかの宗教的な儀式なのか、精神性のものを追い求めてなのかは分かりませんが、明らかにヨガを行うことによって何らかの恩恵を受けていたことは間違いないのでしょう。何も無かったらおそらく今も続いているはずはありませんから。その後アーリア人の侵入によって別の宗教がもたらされて歴史からは姿を消したように見えますが、ヨガを行う人々は居て日夜脈々と瞑想は続けられていたのだと考えます。アーリア人がもたらしたヴェーダは難解で、理解するためには瞑想よって同じ境地になることが必要だったのだと思われます。やがてウパニシャッドが成立します。ウパニシャッドの成立は哲学の成立と言っても問題ないでしょう。

哲学について少しお話しします。哲学とは何でしょうか?洋の東西を問わず、哲学とは「自分とは何ですか?」ということを考える学問のことです。「自分の存在とは」「自分はいったいどこから来たんだろう」「自分は何のためにここにいるんだろう」とか。そういうことを考えるのが哲学の基本です。ただ、インド哲学を見ているとかなり早い段階で答えは出ているんですよね。深い瞑想の果、紛れもなく出ているその答えはズバリ「私は大いなるもの」「我は梵なり」「Tat tavan ash」。大いなるものや梵を「神様」と呼んでいいのかは分かりませんが、そう思う人もたくさんいます。
つまりインドにおいての哲学とはその答えを論理的に証明することが課題だったと言えます。

「自分は神だ!」
「そうだそうだ!」

というワケでその答えが間違っているという議論はあまりというか皆無、結果「俺はこう解釈する」「俺はこう考える」「いや、これに決まってる」と、それぞれ持論を譲らない。やがて様々な研究グループ(学派)が生まれて喧々諤々と論争は長期に渡って繰り広げられるわけですが、その時間の長いこと。千年以上もあーだこーだやっておいて、最終的にはシャンカラが「それはすべて幻!」という意外な一言で決着がつくに至ります。
そうです。先週「インド哲学って最後はひっくり返される、うやむやになるから、真面目に考えないほうがいいよ~」とお話した理由はじつはここにあります。

現在、世界中に広がるヨガ業界では様々なヨガの用語、概念、理論があります。それぞれの流派や最近ではヨガスタジオごとに、それぞれのコンセプトで経営していますよね。でもよくよく見ていると、あの時代のあのアイデアとこっちの時代のこのアイデアと、、をくっつけて自分たちに都合の良いコンセプトを作り上げていることが分かります。ヨガの世界では昔から普通のことなのでそれが悪いということではありませんが、それによって私たちは混乱していることは事実です。悠久の時間軸に散らばる膨大な知識のパーツの数々。さらに同じことを別の言葉で呼んだりしてるので、さらに混乱を招くのです。

私はとりあえずそれぞれの理論はどのような影響しあったのか、何に対して反目したのかなど、時系列で並べて学んだらすっきりとして理解しやすかったです。
例えば、どの時代にバラモン教が入ってきて、反映してやがて衰退していったのか、衰退期というのはバラモン教以外のもの、仏教やもともとあった土着宗教などが勢力を増していることを意味しますし、仏教で人民に人気のある考えは真似されて、ヨーガスートラやバガヴァッド・ギーターにも反映されてる箇所があったりします。




最近はオンラインでいろんなものが学べるので、念願のサンスクリット語の勉強を始めました。ヨガ哲学だけにとどまらずアーユルヴェーダやインド舞踊などのインドの文化を理解するためにサンスクリット語は必要不可欠です。地道に学んでいきたいと思うのですが「60の手習い」まず覚えるのが大変。詠唱ではまず耳が馴染まないから聞き取れない、口が回らずほにゃほにゃしか言えない、今まで勉強してきた言葉を中途半端に聞きかじったりしているから、音が違っていたり間違って覚えたものの癖が抜けない、諸々の苦労はありますが、学びの時間インプットの時間は本当に楽しいものです。

詠唱するのはもっぱらシュローカと言われる唄のようなものでオームぐらいしかマントラは唱えません。なぜならマントラは発音や発声・音程などを間違えると効果がないばかりか、けがをするそうです。インドではマントラを唱える家系の人が、きちんと学んできちんと手順を踏んで、私たちのために毎日唱えて下さっているとのこと。「素人さんが手を出したらヤバいんやで~」と最初に先生から念押しして習いました。そしてとても論理的な語学であることも教えていただきました。英語などの語学を学ぶのとは異なり、思考を論理的に組み立てるための脳のトレーニングにもなるともおっしゃっていて、それを聞いた俗世的な私は即「ボケ防止になる」と思ったのは事実です。

他の言語学者の先生も、サンスクリット語は数ある言語の中で最も論理的で人間が考えたとは思えないほどパーフェクトな言語だとおっしゃっていました。

インドの聖典はほとんどがサンスクリット語で言い伝えられています。膨大な量の聖典をすべて口伝で伝承してきた、伝承できた事実がこのお話しを裏付けています。仏教だけは一般の人に向けて布教したいたのでパーリ語という普通の言葉で伝承されています。

もうしばらくは踏み込んだ話しや詳細についてでなく、インド哲学の全体像、イメージ、雰囲気みたいなところを話していきたいと思ってます。ヨガやってるからヨーガスートラを勉強しなきゃっていう流れが今のヨガの世界では言われているんですが、実際勉強してみると解りますがヨーガスートラを支えている理論ってのが世界でも稀にみるヘンテコ奇々怪々な二元論サーンキャ哲学なわけです。この理論を理解するのは結構大変。なので最初はもっとわかりやすいシンプルな一元論で説かれているもの、バガヴァッド・ギーターや仏教のほうが入り口としては理解しやすいだろうと私自身が思っていますので、ぼんやりと聞いていていただければ、と思います。

今日もありがとうございました




7月のスケジュール


梅雨入りしましたね。今年は季節のめぐりがちゃんとしている気がします。
7月のスケジュールをカレンダーにUpしておきました。「悠」クラスは都合により25日をお休みとさせていただきますのでご了承ください。

オンラインクラスについては少しづつですがアシュタンギーらしく早朝に行うようにシフトします。6:30チャンティング、そこから約2時間指導を行います。もし予定があってもう少し早く練習を切り上げたい場合は、ご自分でスタート時間の調整を行ってくださいね。
お申込みについては、1カ月ごとに入室IDを変えますので、翌月のクラスに1度でも参加を希望される場合、その旨の報告をお願いいたします。翌月のIDをメールにて送信いたします。
お支払いについては入金管理の都合、1ヶ月分まとめて後払いでお願いします。月末締め翌月10日までにご希望の方法でお支払いをしてください。




そしてもう一つ大事なお願いがあります。
私事ですが、
皆様ご承知の通り普通に勤め人をしながらヨガの指導を行っています。本当は毎週決まった日の決まった時間にクラスを行うことが望ましいことは十分承知しているのですが、やはり無理があります。1カ月間まとめてクラススケジュールをUpすると、自分の首を絞める結果になってしまったこともありました。大変申し訳ないのですが、今後のスケジュールUpを直近でのご案内とさせていただくことをご了承くださいませ。わがままを言って本当に申し訳ないと思うのですが、長く続けていくためには無理はしたくないのです。何卒、ご理解をいただきたくお願い申し上げます。


週末6/27は日本時間9時からSharath先生によるアジア地域向けレッドクラス&カンファレンスがあります。日本語による通訳サイトのグループもあるので、ご希望の方は下記URLからお申込みください。

https://www.yanong.me/shop/sharathjois-27thjune


2020年6月22日月曜日

国際ヨガデイ2020

2020年6月21日は夏至、新月、そして皆既日食が見られる1日でした。「国際ヨガデイ」でもありました。
今回不肖私めもIYCのモモ先生からお声がけいただき「国際ヨガデイ 108回太陽礼拝奉納」でガイドさせていただく機会をいただきました。大御所の先生方に混じってのガイドということでドギマギしましたが、担当となる61回から72回までの12回のガイドを無事に済ませることが出来ました。
参加者は200人ほどいたのかもしれません。デバイスの数は150台ほどでしたが、ご家族でスタジオからという参加者もたくさんいて、とても賑やかな奉納となりました。

時間が押していたためケン先生が超高速太陽礼拝Bで巻いて下さり、まさに駆け抜けた2時間でした。長野県からも5~6人は参加していたと思いますが、早朝から本当にありがとうございました。


2020年6月16日火曜日

だるしゃな時間 その1

2020/6/12

タイトルの「だるしゃな:darsana」とはサンスクリット語で哲学のことです。一般的な哲学というより「インド哲学」そのものと思っていただいて結構だと思います。また語るコラムの「コラム」は、そもそも柱(円柱)を意味していて、ヨガをしている人ならば誰もが知っている「アンガー」柱、支えにかけています。アシュタンガ(八支則)やチャトランガ(4本の脚)でお馴染みの「アンガー」です。聞いて下さる皆さんがヨガ哲学を学ぶにあたり柱のような支えとなってくれればいいな~という、意外とちゃんとした思いを込めたタイトルとなってます。
ここではインドの哲学はもちろん、神話や文化、ヨガにまつわるあれこれ、その時の気分とノリでお話ししていきたいと思いますが、もし聞きたいトピックスがあったらリクエストくださいね。

今回のコロナによる騒動を通して改めてヨガの本質、奥深さを垣間見た気がします。
所説ありますが、ヨガはインドで4~5千年前に生まれたと言われています。発祥してからずーっと5千年間、消滅することなく常に人類と共に存在していたヨガ、今回のコロナ禍でもポシャることなく、むしろオンラインという道具を当たり前のように使って、何事もなかったかのようにシフトして、あたかも何年も前からずーっとやってました何か?的な嵌りっぷりに「ヨガってすげーな」とつくづく思ったわけです。5千年前にこんなインターネットがあったワケじゃないし、当時のインド人だって想像も想定もしてなかったと思いますよ。それでも「ヨガは人の営みと共にあるもの」「人に寄り添うもの」という、ヨガの普遍的な本質を見ること感じることが出来た私たちは、その変貌を見届けた生き証人なわけです。今に生きていてよかったですね。

インドの哲学を始めて聞くという方はいらっしゃいますか?
ほとんどどこかでお話しを聞いたり勉強をされているんですね。素晴らしいです!
「インド哲学はあまり真面目に受け取らないほうがいいですよ~」と私が行う哲学のクラスでは必ずお伝えしています。なぜかというと、ある事柄についてですが3千年以上も議論を交わした挙句が「ま~ぼ~ろ~し~~~~」で終結しているからです。インド哲学はそんなもんです。なんでんかんでんガンガーに放り込んで3メートルも流れれば浄化されてしまう。それがインドです。なので、気楽に聞いてくださいね。




私たちは必ず良い結果が出て欲しいと願って行動します。たとえ結果が悪かったとしても、始めから悪い結果を求めて行動はしませんよね。たとえわずかな変化でも少しでも前に歩みたい、幸せになりたいと願って行動を起こします。ただ、その幸せや願いは人それぞれに違っていて、その人の今のレベルに応じたものを求めます。それ以上もそれ以下もなく今の自分に見合った幸せや成果を求めるので、他人を見て場合によっては「それは違う」と感じることもあると思います。以前の自分と今の自分が欲するものが変わることも当たり前のことで、人は成長と共に求める成果や幸せと感じる物事は変化します。他人と比べるのはナンセンスなことですし、今の自分を作り上げているのはいくつもの岐路で何かしらの選択をしてきた結果だと認めることはとても大切だと思います。

最後のお話しですが、やはりコロナ禍にまつわることです。
数日前ですが21日の夏至の日に高野山で太陽礼拝を奉納するというお話しをいただきお手伝いさせていただくことになったのですが、実は神主の家系で仏教のぶの字も知らないんですよ。高野山の宗派が何なのかも知らないので「こりゃいかん」と検索してましたら「三密」という言葉が出てきました。
「三密」です。
当たり前ですが最近世間で言われている「密閉・密集・密接」の三密とはまったく違います。「密教において身口意の三つを仏と同体とすること」書いてありました。身は体です。ヨガで言えばアーサナで大なるものと繋がることでしょうか。口は口です。マントラ(真言)を唱えることで大いなるものと繋がることです。そして意は意識です。大なるものに意識を集中させて瞑想することで繋がっていく。行為をするこの3つすべてを仏と同化させていくことで、自分を清め幸せになるという教えです。同じ言葉でこの違い、このめぐりあわせの妙、面白いなぁと思ったというお話しです。

ありがとうございました。



2020年6月15日月曜日

語るコラム”だるしゃな時間”始めました

先週末からポコスタさんのオンラインクラスで「語るコラム”だるしゃな時間”」を始めました。20分ほど私がだらだらと好き勝手にダルシャナ=インド哲学っぽい事についてしゃべる、座学というよりラジオ番組のようなクラスです。
初回の12日はゲリラ的開催なうえ開始時間も30分間違えて告知されるという、確信犯なんだかウッカリさんなんだか(笑)それでも3時間前告知にも関わらず大勢の方が参加してくれて嬉しかったです。ありがとうございました。
個人の感想からすると「ひたすらワタワタしまくって過ごした20分間」でした。そもそも「夕飯も食べてお風呂も入ってあとは寝るだけ~」の時間帯に「ぬっる~い感じでヨガ哲学をしゃべくる」ってコンセプトで始めたので、真面目に座ってノートを取っていらっしゃる参加者を画面越しに見て、逆に緊張してワタワタに拍車がかかった、ってのもありました。
ドタバタと始まりましたが、私らしいっちゃ~らしいスタートでしたね(笑)お話する内容についてはライフワークとしてゆる~く続けていきたい事に違いはありませんので、録音して文字に起こしておこうかなと考えています。初回はいろんな事情で撮れなかったので、灰色と化した脳細胞に鞭打って?思い出して書こうと思っています。こちらをご覧になって「こんなことも話してましたよ」とか「これはこう言ってましたよ」とか覚えていらっしゃる方がいらっしゃいましたら、記憶のアウトソーシング(笑)、ぜひ教えてくださいね。追記させていただきます。


2020年6月8日月曜日

ブログ始めました。

ヨガを始めた20年前はブログが全盛で、私も自分の練習記録としてこっそり書いていました。ブログを通じて知り合ったアシュタンギーさんもたくさん居て、今も交流があったりしますが、20年ですよ!私の生活も変わったように、アシュタンガヨガを継続している方、止めてしまった方、関りを変えた方、それぞれに当時とは違った生活を当たり前にされています。
今はinstagramやらfacebook、Twitterと様々なメディアが主流。こちらは写真がメインなので、文章は頑張って書かなくても投稿できる手軽さがあります。手軽ではあるんですが、、、オバチャンは勝手にリンクしたりしなかったり、右往左往、弄ばれてます。

世間では「新しい生活様式」「withコロナ」なんて言葉が生まれ、リモートの手軽さを覚えた私たちは、もっと便利なツールを手にした反面、このブログのようにひとつひとつ丁寧に紡いでいくような作業に惹かれていくのもまた常。じっくり時間をかけて成していくヨガが性に合っている気がするのは、やはり年齢のなせる業、なんでしょうかね~。

またブログに戻ったのをきっかけに、あちこちに取っ散らかった過去のブログを統合しないといけないな~と考える日々でございます。




特別なことは書かないと思いますが、ヨガと同様、マイペースで自分らしく書き綴っていける場となればいいな、と何年越しにか改めてブロブ始めました。