2020/6/19
こんばんは。今日は時間通りの始まりとなりましたね、よろしくお願いします。
今の私たちがヨガとして行っているものは、体を使ってアーサナ(ポーズ)をとるのがメインの「ハタヨガ」が主流だと思いますが、ヨガの長い歴史の中で見ると、とても新しい、まだまだ歴史の浅いものです。ヨガが成立した4~5千年前のヨガは「座って瞑想する」ことがメインなのでポーズをとるはありませんでした。5千年前のこと、とても想像がつきませんが電気はもちろんインターネットやテレビラジオ、何にもない時代ですよね。太陽のある日中は明るいですが、夜は真っ暗で灯りは月や星の明かりだけ、自然現象の中で瞑想を行う私たちの祖先は様々なものに気づき、発見をしてその中から哲学の芽というものが生まれてきたわけです。
ヨガ哲学はヨガよりちょっと後に成立しています。ちょっとと言っても千年単位ですけどね。いきなり哲学が生まれたわけではないです。当時、瞑想というスタイルのヨガは何らかの宗教的な儀式なのか、精神性のものを追い求めてなのかは分かりませんが、明らかにヨガを行うことによって何らかの恩恵を受けていたことは間違いないのでしょう。何も無かったらおそらく今も続いているはずはありませんから。その後アーリア人の侵入によって別の宗教がもたらされて歴史からは姿を消したように見えますが、ヨガを行う人々は居て日夜脈々と瞑想は続けられていたのだと考えます。アーリア人がもたらしたヴェーダは難解で、理解するためには瞑想よって同じ境地になることが必要だったのだと思われます。やがてウパニシャッドが成立します。ウパニシャッドの成立は哲学の成立と言っても問題ないでしょう。
哲学について少しお話しします。哲学とは何でしょうか?洋の東西を問わず、哲学とは「自分とは何ですか?」ということを考える学問のことです。「自分の存在とは」「自分はいったいどこから来たんだろう」「自分は何のためにここにいるんだろう」とか。そういうことを考えるのが哲学の基本です。ただ、インド哲学を見ているとかなり早い段階で答えは出ているんですよね。深い瞑想の果、紛れもなく出ているその答えはズバリ「私は大いなるもの」「我は梵なり」「Tat tavan ash」。大いなるものや梵を「神様」と呼んでいいのかは分かりませんが、そう思う人もたくさんいます。
つまりインドにおいての哲学とはその答えを論理的に証明することが課題だったと言えます。
「自分は神だ!」
「そうだそうだ!」
というワケでその答えが間違っているという議論はあまりというか皆無、結果「俺はこう解釈する」「俺はこう考える」「いや、これに決まってる」と、それぞれ持論を譲らない。やがて様々な研究グループ(学派)が生まれて喧々諤々と論争は長期に渡って繰り広げられるわけですが、その時間の長いこと。千年以上もあーだこーだやっておいて、最終的にはシャンカラが「それはすべて幻!」という意外な一言で決着がつくに至ります。
そうです。先週「インド哲学って最後はひっくり返される、うやむやになるから、真面目に考えないほうがいいよ~」とお話した理由はじつはここにあります。
現在、世界中に広がるヨガ業界では様々なヨガの用語、概念、理論があります。それぞれの流派や最近ではヨガスタジオごとに、それぞれのコンセプトで経営していますよね。でもよくよく見ていると、あの時代のあのアイデアとこっちの時代のこのアイデアと、、をくっつけて自分たちに都合の良いコンセプトを作り上げていることが分かります。ヨガの世界では昔から普通のことなのでそれが悪いということではありませんが、それによって私たちは混乱していることは事実です。悠久の時間軸に散らばる膨大な知識のパーツの数々。さらに同じことを別の言葉で呼んだりしてるので、さらに混乱を招くのです。
私はとりあえずそれぞれの理論はどのような影響しあったのか、何に対して反目したのかなど、時系列で並べて学んだらすっきりとして理解しやすかったです。
例えば、どの時代にバラモン教が入ってきて、反映してやがて衰退していったのか、衰退期というのはバラモン教以外のもの、仏教やもともとあった土着宗教などが勢力を増していることを意味しますし、仏教で人民に人気のある考えは真似されて、ヨーガスートラやバガヴァッド・ギーターにも反映されてる箇所があったりします。
最近はオンラインでいろんなものが学べるので、念願のサンスクリット語の勉強を始めました。ヨガ哲学だけにとどまらずアーユルヴェーダやインド舞踊などのインドの文化を理解するためにサンスクリット語は必要不可欠です。地道に学んでいきたいと思うのですが「60の手習い」まず覚えるのが大変。詠唱ではまず耳が馴染まないから聞き取れない、口が回らずほにゃほにゃしか言えない、今まで勉強してきた言葉を中途半端に聞きかじったりしているから、音が違っていたり間違って覚えたものの癖が抜けない、諸々の苦労はありますが、学びの時間インプットの時間は本当に楽しいものです。
詠唱するのはもっぱらシュローカと言われる唄のようなものでオームぐらいしかマントラは唱えません。なぜならマントラは発音や発声・音程などを間違えると効果がないばかりか、けがをするそうです。インドではマントラを唱える家系の人が、きちんと学んできちんと手順を踏んで、私たちのために毎日唱えて下さっているとのこと。「素人さんが手を出したらヤバいんやで~」と最初に先生から念押しして習いました。そしてとても論理的な語学であることも教えていただきました。英語などの語学を学ぶのとは異なり、思考を論理的に組み立てるための脳のトレーニングにもなるともおっしゃっていて、それを聞いた俗世的な私は即「ボケ防止になる」と思ったのは事実です。
他の言語学者の先生も、サンスクリット語は数ある言語の中で最も論理的で人間が考えたとは思えないほどパーフェクトな言語だとおっしゃっていました。
インドの聖典はほとんどがサンスクリット語で言い伝えられています。膨大な量の聖典をすべて口伝で伝承してきた、伝承できた事実がこのお話しを裏付けています。仏教だけは一般の人に向けて布教したいたのでパーリ語という普通の言葉で伝承されています。
もうしばらくは踏み込んだ話しや詳細についてでなく、インド哲学の全体像、イメージ、雰囲気みたいなところを話していきたいと思ってます。ヨガやってるからヨーガスートラを勉強しなきゃっていう流れが今のヨガの世界では言われているんですが、実際勉強してみると解りますがヨーガスートラを支えている理論ってのが世界でも稀にみるヘンテコ奇々怪々な二元論サーンキャ哲学なわけです。この理論を理解するのは結構大変。なので最初はもっとわかりやすいシンプルな一元論で説かれているもの、バガヴァッド・ギーターや仏教のほうが入り口としては理解しやすいだろうと私自身が思っていますので、ぼんやりと聞いていていただければ、と思います。
今日もありがとうございました